横丁のメランコリー

第7話―壁トントン叩いてはる―

ここは大阪千林。下町風情が今に息づく横丁。そっと耳を澄ませば聞こえてくるはず。不機嫌な気まぐれものたちの呟きが。「ひとりが好きなわけやないけど、だれかと一緒もきゅうくつ」俗世の垢にまみれ日々あくせくする横丁の住人たちをよそに、日がな一日ごーろごろ。退屈しのぎにぶーらぶら。そんな猫たちのお気楽な横丁暮らしを見るにつけ、物憂さなんてどこへやら。「喜びも悲しみもつかの間。のんびりいこや。生きるってメランコリーにあふれてるんやから」

『トンカン、トンカン』

今朝から伯父さんは、珠子が寝泊まりする事務所兼倉庫に工具一式、脚立と準備万端携えてさっそうとやって来てきた。

昨夜は十分に眠れなかった分、今朝は心ゆくまで惰眠をむさぼろうと、心にかたく誓っていたのに…珠子は寝ぼけ眼をこすりつつ、恨めしく壁を見上げている。

伯父さんは脚立のてっぺんに腰を据え、これ見よがしにトンカチ片手に自慢の大工の腕をふるっている。

それもこれもすべては昨日の壁猫騒動の余波である。

昨日、壁の中から子猫を助けるべく、珠子と伯父さん二人して七転八倒し、穴ぼこだらけになった壁。それを伯父さん手ずから修繕しているのだから、仕様が無いと言っちゃ仕様が無い。珠子にしたって壁の修繕は喫緊の要事であることにはちがいない。

それにしたって、何もこんな朝っぱらから乗り込んでこなくても…

伯父さんときたら、早起きは三文の得とばかりに、

「ええ若いもんがいつまで寝とんねん」

と、まぁ、ぬかしてけつかる。

「朝が早いのは老化現象だよ」

と珠子は返すも、伯父さんはしれーっと聞き流す。

で、諸悪の根源たる子猫のめありはと言えば、トンカンなんてどこ吹く風、珠子のベッドという安息の地を得て丸くなってス~ヤスヤ。

ところで先程来、珠子が“伯父さん”と呼ぶこの人物の正体たるや如何に。この男こそこの家の主(あるじ)桃井咲蔵その人である。あるじとは名ばかりで、実のところ独り居のやもめ暮らしと口ほどにも無い身の上ではあるのだが。

で、珠子とはいかなる間柄にあるのかと言うと、珠子の父、佐倉虎夫の姉、即ち珠子の伯母桃井姫子の夫に当たる人。つまり珠子とは義理の伯父ということになる。

で、この桃井咲蔵氏、なにゆえしがないやもめ暮らしに甘んじているのかと言えば、こればっかりは当人の名誉のためにも是が非にも声を大にしておきたい。昨今流行の熟年離婚、なんてワイドショーの三文ネタにもならないようなお粗末な巻ではない。

三年前、役職定年を機に伯父さんは晴れて勤め先の会社を退職。かねてからの夢だった起業を果たすも、その直後

 

北の国から戻らず

 

桃井、佐倉、空知、柚木、石黒、白石、梅宮、甲斐、こっこ、姫子、実怡、みるく、杏子、あこ凜、紀那子、奈菜、華子、とら、ちび、てん、じじ、こてつ

キンキーウィスカー、パンタロン、

 

「確かにお前は犬と言うよりは猫やな」

 

「伯父さんみたいな、家事でも何でも万能にこなせる忠実(まめ)男さがすから」

「お前みたいにたるんだぐうたら娘に、どないしたらそんなええ男が出来んねん」

「じゃ、伯父さんの奥さんはよっぽどいい女だったんでしょうね」

「そら、ええ女やったで」

ふたりの間に妙な沈黙が漂う。

「伯母さんってどんな女(ひと)だったの?」

 

 

幕間の舞台裏、ドーランを落とし素顔でタバコをくゆらせる。煙と共にふと本音もこぼれる。

決して千林が嫌いなわけではなかった。ただ外の世界を見てみたかった。広い天地で自分を試したかった。もっとやれると信じていた。とは言え、世の中そう思うように上手くはいかないもの。いろいろな商売に手を出してみた。飲食業だったり…サラリーマン生活も…どれもしっくりこなくて。飽き足りず一度は飛び出した千林。おめおめと後ろめたさ

必要とされる喜びはひしひしと感じる。けれども

満足いく結果ばかりが必ずしも人生を切り開くとは限らない。一見挫折や妥協の産物であるように思われたとしても、人生の次のステージは

 

陰陽道。この世界を自然の摂理を宇宙の真理を、秩序立てて説明するためのひとつの方法。現代では自然科学が担っている。科学信奉主義。

 

あたかも生存に疲れたかのごとく地上を去って行くミツバチたち。父や母が家族を捨て家庭を捨て蒸発してしまうかのごとく。未だ原因不明。静かなる崩壊。

 

孤高の野良犬ライオン丸。

 

まほろば。黄泉の入り口。

 

白のロードスターで一緒にドライブに行きたかった。ルーフを開けて風に髪をなびかせ

 

大島君とこのおばちゃんの話。「たま、お茶っ葉買ってきてくれへん。午後から大事なお客さんをもてなしするから」「ええのはりこんでや」

 

 

白猫、オッドアイの秘密。秘密と言っても、それは彼女に対して我々が秘密にしていることだ。

 

キンキーウィスカーの孤独。以前の飼い主にはひどい輩で、虫の居所が悪いと彼のことをなぶり鬱憤を晴らしていた。ある日とうとうひげに火をつけられた挙げ句、家から放り出された。身も心も傷つき恐怖におびえ衰弱していたところを、心優しきオーストラリア人に助けられる。それまで飼い主が有りながら名前すらなかった彼だったが、生まれて初めて名付けて貰ったのが、このキンキーウィスカーという名であった。日本語で縮れひげという意味らしい。これまでついてない人生ならぬ猫生であったのが、オーストラリア人の彼に出会ってからというもの、運が開けてきた。まあ、運が開けてきたと言っても、毎日たらふく喰えて、優しく背中を撫でてもらえさえすればそれでよいのだが。彼の片思いの恋を成就させたい。猫が恩義を覚えるなんて、犬やあるまいし…といささか懐疑的にならざるを得んが、猫にだってそれなりに恩くらいは理解できる。何とかせんならんなあ、と時折思い至ることもある。ぼんやりと。そうぼうやりと、その時だけ。基本的にはどうでもええことなのだが。

 

「たま」

そう呼ぶ声がして珠子が玄関先まで出てみると、伯父さんが立っていた。ええおっさんがまるで20代のヒッピーがだちん家に転がり込むかのごとく、バックパック一つで。

「引っ越してきた」

「マンションは?伯母さんとふたりで暮らしてきたあの…」

「引き払った」

「それはまた思い切ったことを。でも、なんで今更…」

珠子は怪訝な顔をする。

「いくら伯父さんでも一人暮らしの女性の家に転がり込んでくるなんて」

「転がり込んでくるとは失敬な。そもそもこの事務所兼倉庫は伯父さんのもんやで。居候はお前の方や」

「厳密に言えば伯父さんは義理の伯父であって他人よ」

「何を今更他人行儀な。お前が二つの頃から風呂に入れてやった仲やで。それに、曲がりなりにも大事な娘をお預かりしてるんや。そばに居って見張っとかんと。お前の身に何かあっては、親父さんに合わせる顔がない」

「そんなに四六時中そばにいなくても…」

「突っ立っとってもしゃあない。入るで」

伯父さんはずかずかと部屋の奥へと進んでいく。

「めあり!今日からはずっと一緒やで」

もっともらしい理屈を並べ立てたところで、本当の目的はずばりめありだ。壁から取り出して以来、伯父さんはめありに首ったけ。文字通りでれっでれの猫かわいがりぶりには珠子もほとほとあきれるばかり。珠子がめありを独占していることに焼き餅焼いていたのだ。

こうして、ふたりと一匹、否、三匹の三匹による三匹のためのけったいな同居がはじまった。

 

世界で冠たる大企業の役員までつとめた。海外での単身赴任も長かった為英語が堪能なのは当然のこと。単身赴任が高じて趣味は料理。しかも腕前は超一流。世界各国の料理もお手の物。珠子にとっては何でも出来ちゃうスーパーマンみたいな人。憧れのスーパーヒーロー。しかし、いざ一つ屋根の下で暮らしてみると減らず口ばかり。駄洒落やおやじギャグ連発。珠子の前で平気で屁はこくし、いびきはかくし。ぺっかぺかのヒーローも一皮むけばただのおっさん。

「お前が結婚して旦那と一緒に暮らした時に、幻滅しすぎて離婚の危機を迎えんように今のうちに免疫つけといたる」

とよくもまあぬけぬけとぬかしてけつかる。

早期に職を辞して。もともとは技術畑の人だったので様々な資格を有する。それを活かして自動車やパソコン、電化製品の修理したり、工場などの作業場の指南役、嘱託で中小企業の支社の雇われ社長に就いてみたり。時にごコミュニティーの講習会に招かれて英会話やパソコン、料理なんかのインストラクターをつとめてみたり。

 

獣医になった息子。北海道で獣医師をしている。北海道に骨を埋めるつもり。いつかは北海道に移り住み乗馬でもして暮らしたい。が、今は行きたいとは思わない。しゃくに障るから。千林に愛着がある。千林は便利。ものは安い。どこへ出かけるのも交通の便が良い。傘なしで京阪電気鉄道にも地下鉄にも乗れる。ちょっと飲みたくなったらええ店がそばにぎょうさんあるし、のみ仲間もすぐできるしみつかる。

 

こういう時季には、やはりお決まりのあれですね、怪談。今一つ怖くはありませんが、青桃もこの間いわゆる“それ”に遭遇しました。取り壊し間近のとある旧い商工会館にて、「出る」と噂の5階。そこにはオフィスもテナントも一切入っていないのですが。閉館間際の午後10時前、ミーティングを終え、6階にて下りのエレベータに乗り込もうとした際のこと。ちょうど5,6人乗り込んだところで、閉扉ボタンを押さないのに、突然扉が閉まりだし同僚が挟まれかけました。それでもお構いなく扉は勢いよく閉まり、どこの階のボタンも押さないのにエレベータは勝手に下りだしたのです。「はよ1階のボタン押し~!」と誰かが叫びましたが、時すでに遅し、エレベータは5階で停まりチ~ンと扉が開きました。もちろん“人”はいません。が、明らかに“何か”が乗り込んできたのはわかりました。でもあまり怖い類のものではありません。というのも、青桃はいわゆる霊感という特殊な感覚はあいにく持ち合わせておりません。せいぜい生きている人間の残像みたいなものを微妙に捉えられる程度のものです。仮にそんな恐ろしいものに出会ったとしても、到底感知できないのであります。エレベータが1階に到着するまでの時間の長いことといったら…皆押し黙っていました。青桃だけが「いますね~」と小声で繰り返していました。1階で扉が開くや否や、皆一目散に駐車場へと去ってしまいました。青桃も早く駐輪場へ行きたかったのですが、何故だか上司がその場で立ち止まっているのです。青桃は思わず「その… 憑いていますよ、通り道ですから」と上司の背中を払ってしまいました。怖いものでなくても、やはり気持ち悪いものは気持ち悪い。おそらく“それ”は建物の取り壊しを知り、慌てて出て行くことになったのでしょう。その後、上司と話をした際「そういうあんたが怖い気がする。やっぱり君はちとかわっとるな~」とのことでした。

 科学や合理主義の行き届いた世の中では、“そんなもの”は存在しない、というのが主流、王道、常識でしょう。青桃もずっと我が身にそう言い聞かせてきました。“何か”感じても、錯覚に違いない、“そんなもの”を信じるるなんて無知蒙昧だと自己否定してきました。でもやはりいるものはいるし、感じるものは感じるのです。最近になってそういう自分を素直に受け入れられるようになり、却って気楽になりました。

 兎角この世で本当に怖いものといえば、生きている人間の「人で無し」をおいては無いでしょう。いつか青桃も、生きている人間の鬼をモチーフにした「怪談」を描いてみたいと、秘かにアイデアを温めております。

第5話-最初の晩餐-

ここは大阪千林。下町風情が今に息づく横丁。そっと耳を澄ませば聞こえてくるはず。不機嫌な気まぐれものたちの呟きが。「ひとりが好きなわけやないけど、だれかと一緒もきゅうくつ」俗世の垢にまみれ日々あくせくする横丁の住人たちをよそに、日がな一日ごーろごろ。退屈しのぎにぶーらぶら。そんな猫たちのお気楽な横丁暮らしを見るにつけ、物憂さなんてどこへやら。「喜びも悲しみもつかの間。のんびりいこや。生きるってメランコリーにあふれてるんやから」

「ただいま。さあ夕飯や夕飯や」

と、伯父さんは両手にレジ袋をたんと抱えて千林からご機嫌に無事ご帰還する。

早速珠子と子猫ふたりしてレジ袋の中身を物色する。

「何これ。まじで豪華じゃん。コンビニ行ったんじゃないんだ」

「お前なぁ…」

珠子のコメントにあきれ顔の伯父さん。

子猫はというと、大胆不敵にもレジ袋に体ごと突入。前足でビニルを掻き掻きしてじゃれついている。ビニルのバシバシする触感とビリビリと小気味いい振動(バイブレーション)がいたくお気に召したらしく、いささかご執心の様子。

「で、キャットフードは?」

「そや、まずは猫飯から」

伯父さんは子猫のしっぽをつかむと、レジ袋からひょいと引っぱり出す。

「さてもなかなか目ざといですな」

そのレジ袋の中からキャットフードの缶詰を三缶取り出し披露する。

「さてはお味はいかにいたしましょう」

珠子は子猫を抱き上げ、

「わぁ、贅沢!どれどれ、ビーフにチキンにツナ…やっぱビーフかな」

と、珠子が見つくろうと

「肉ときたか…今時の子やな。おれらの世代やと猫ゆうたら魚ゆうイメージやけどな」

「じゃ、ツナで」

「かしこまいりました。しばしお待ちを」

伯父さんはうやうやしくお辞儀すると、レジ袋からさらにスペシャルな容器を取り出す。それというのも、クリスタルに似せたアクリル樹脂製のカクテルグラスである。どうやら100円ショップでわざわざ仕入れてきたようだ。

伯父さんはしたり顔で、カクテルグラスにプッチンプリンの要領でツナ味キャットフードをプルルンと落とし込む。

ひとときテレビで、ゴージャスなペルシャ猫が本物のクリスタルのカクテルグラスに盛りつけられたキャットフードにがっつくCMが放映されていたが、何だかそれを彷彿させるのは単なる気のせいか。

伯父さんは珠子の手から子猫をかっさらうと、床に座らせる。こんもりとキャットフードの盛られたカクテルグラスを目の前に差し出す。

かたずを?んで見守る珠子と伯父さん。

が、理想は高く現実は厳しいのが世の常。伯父さんの目論見とは裏腹に、ちょっかい一撃。子猫ごときに横っ面を張り倒され、カクテルグラスはあえなく陥落。床の上でぼっとっとへちゃげるキャットフード。

「あらら」

床に投げ出されたキャットフードを、むしゃむしゃと満足げにむさぼる子猫であった。

「これがツナやのうてナマズやったらえらいこっちゃなぁ」

「何で?」

「ナマズは英語でキャットフィッシュゆうやろ。共食いになってまいよる」

「…」

「さ、われわれも飯にしよ」

落ちが滑ったところで、伯父さんはそそくさと食卓のしつらえに取りかかる。

第4話-小さな子猫に大きなお世話-

ここは大阪千林。下町風情が今に息づく横丁。そっと耳を澄ませば聞こえてくるはず。不機嫌な気まぐれものたちの呟きが。「ひとりが好きなわけやないけど、だれかと一緒もきゅうくつ」俗世の垢にまみれ日々あくせくする横丁の住人たちをよそに、日がな一日ごーろごろ。退屈しのぎにぶーらぶら。そんな猫たちのお気楽な横丁暮らしを見るにつけ、物憂さなんてどこへやら。「喜びも悲しみもつかの間。のんびりいこや。生きるってメランコリーにあふれてるんやから」

壁猫救出作戦。結局終わってみれば半日がかりであった。

「今朝はたまとふたりで近所の喫茶店にモーニングでもしゃれこも思とったのになぁ。あっこの半熟卵ときたらほんま絶品なんやで」

珠子と伯父さんは床にへたり込んで壁を見上げている。それにつけても、壁一面穴ぼこだらけ。ひどい有様である。

「腹減ったなぁ。お前のおかげでモーニングどころか、昼飯まで食いはぐれてもたわ」

伯父さんは、お膝にちょこんまんと陣取る子猫のあごの下をもじゃもじゃと撫でてやる。子猫は伯父さんの指にじゃれつくと、小さなお口にふくんできゅーと吸い付く。

「お前も腹減ったんか?そらそやわな。一晩中壁の中に閉じ込められとったんやからな。何食べたい?」

珠子は子猫に顔を近づけると、伯父さんの膝から子猫とさっとかすめ取る。

「子猫と言えばミルクよねぇ」

珠子は両手で子猫の両脇を抱え上げると、その小さな鼻面に頬ずりする。

「ミルクて、お前は安直なやっちゃな。ミルクゆうたら牛乳やで。牛の乳やで。そんなもん飲ませようもんなら腹こわしよるがな」

今度は伯父さんが子猫の背後から首根っこをひょいとつまみ上げると、自分の方へと連れて行ってしまう。

「じゃ、何食べさせればいいの?」

子猫を取り返そうと珠子がそっと手を伸ばす。

「このくらい大きなっとったら、普通のキャットフードでええんちゃうか。なあ~お前何食べたいねん?」

「珠子はねぇ、伯父さんの手料理なら何~んでも」

伯父さんは、そばまで伸びてきた珠子の手をめざとく見つけると、手の甲にしっぺする。

「お前とちゃう!」

伯父さんは母猫よろしくシーッとしかめっ面を見せつけて、くるりと珠子に背を向ける。

「腕によりを掛けてご馳走喰わしてやりたいところやけど、ホンマ疲れたわ。今日の所は手っ取り早う千林のお総菜で済ましとこか」

子猫を奪われまいと、伯父さんは首だけ珠子の方へ向ける。

「たま、すまんねやえど、千林いってちぃっとなんなと見つくろってきてくれへんか」

「え~そんなこと言われても、わたし昨日ここに着いたばっかりよ。千林なんて…」

伯父さんは大きなため息をつく。

「しゃあないなぁ。ちょっくらいってくるか」

伯父さんは、子猫の身体を片手でひょいと抱き上げ、珠子の膝へと乗っける。

「おとなしいしとれよ。いや、やっぱ暴れたれ」

「もう」

「壁の中にはいれるなよ」

「いれないわよ!」

伯父さんは、ズボンの後ろポケットに財布を押し込むとそそくさと千林界隈へと出かけていく。

バタンとドアが閉まる音がするやいなや、珠子は両手で思いっきり子猫を高い高いする。

「これでようやくお前とふたりっきりよ」

子猫を独り占めできるとあって、珠子は浮かれ心地で子猫と思う存分床でごろんごろんする。

珠子と伯父さん、ふたりの愛情を小さなその身に一身に受け、ありがた迷惑な子猫であった。

第3話―壁から出た実(まこと)―

ここは大阪千林。下町風情が今に息づく横丁。そっと耳を澄ませば聞こえてくるはず。不機嫌な気まぐれものたちの呟きが。「ひとりが好きなわけやないけど、だれかと一緒もきゅうくつ」俗世の垢にまみれ日々あくせくする横丁の住人たちをよそに、日がな一日ごーろごろ。退屈しのぎにぶーらぶら。そんな猫たちのお気楽な横丁暮らしを見るにつけ、物憂さなんてどこへやら。「喜びも悲しみもつかの間。のんびりいこや。生きるってメランコリーにあふれてるんやから」

「すぐ助け出したるさかい、辛抱せえよ」

伯父さんは倉庫の奥から工具一式を携えて戻ってくるなり、速やかに猫救出に着手する。

伯父さんは壁に耳を当てて、壁の中の様子と伺う。珠子も伯父さんと顔を突き合わせて壁に耳をあてがう。

『ガサゴソ、ガサッ』

壁の間をこすれるような音がして、ふたりはしたり!とばかりに顔を見合わせる。

伯父さんはのみとトンカチを取り出すと、音がする箇所にのみを突き立て慎重にトンカチで柄頭を叩く。猫は言うまでもなく、壁内部の胴縁に傷でもつこうものなら一大事。作業は飽くまでソフトタッチで…

『ゴン、ゴン、ガーン!』

思いとは裏腹に、威勢良く響き渡るのみ打つ音。壁の中の騒音はいかばかりか。

「ミャー、ミャー!」

金切り声で叫き立て、慌てふためく壁の中。

ようやく男の腕が一本通るほどの穴が開く。

声の主をつまみ出そうと、伯父さんは穴に腕を突っ込む。

「おぉ、お…お?」

壁の内部を探るも、届きそうで届かない。ふわっふわの毛に指の先がほんのちょっと触れるだけ。文字通り実体がつかめない。

猫にしてみりゃ、トンカントンカン大音量で壁をこじ開けられたかと思うと、正体不明の魔の手がにゅっと伸びてきて、つかみかかってこられたもんだから堪ったもんじゃない。

「ミャオー」

すんでのところで魔の手から逃れる。

逃げられてはならぬ。とばかりに、伯父さんは肩が隠れるほど腕を奥まで差しれるも、猫は小さな肢体をかいくぐらせ下地材の向こうへと逃げおおせた。

伯父さんはがくっと肩を落とす。

が、なんのこれしき、めげてなどいられぬとばかりに、伯父さんは気を取り直し、新たな箇所に穴を開け直す。

そうしてまた腕を差し入れ壁の中を探るも…無情にも猫は伯父さんの手をすり抜け、またしても壁の奥へ奥へと身を隠す。

「声はすれども姿は見えぬ、ほんにお前は屁のような」

こんな冗談言っていられたのも始めのうちだけ。開けた穴の数が増す毎に、焦りと疲労が増していく。こんな調子ではもぐら叩きか、はたまたいたちごっこか。壁の中身はもぐらでもいたちでもなく猫なんだけれど。

「いつまでこんな堂々巡り繰り返したらいいの。もうくたびれたわ」

「くたびれたて、お前は端で見てるだけやろが」

「伯父さんの作業ときたら見てるだけでやきもきするもん」

「どういう意味やねん」

「だって、壁は穴だらけだし」

「たしかに…」

ふたりは壁を見上げる。見るも無惨な惨劇の跡。上を下への大騒ぎしているうちにいつの間にやら壁はあちこち穴ぼこだらけ。大わらわの大捕物の末もう破れかぶれ。壁紙も破れだらけ。

もう、やけのやんぱちの伯父さん。

「こうなったら天の岩屋戸作戦や。たま、天照大神様がお出ましくださるよう裸踊りせい」

「伯父さんのセクハラ!」

とかなんとか、へっぽこ漫才の掛け合いよろしくふたりがやいのやいのとやり合っていると…

ふと見ると、ふたりが思い焦がれ恋い焦がれてならぬお方様が、壁の穴より御自らご尊顔お出ましではあ~りませんか。

千載一遇、これを逃してはなるものか。電光石火の早業で、伯父さんは首根っこを押さえ込むと、壁の穴からつまみ出す。

「ミャオ」

さてもさても七転八倒の末、ついに壁の中から取りだしたるは、まだまだオチビの子猫ちゃん。

手を取り合って喜びを分かち合う。

「天の岩屋戸作戦、大成功や!」

「裸踊りなんてしてないっちゅうの!」

苦労した甲斐あって喜びも一入。珠子と伯父さんはオチビちゃんをかわりべんたんに頬ずりしもみくちゃになで回す。猫にしてみりゃ迷惑な話である。

「この喜びを一言で言い表すなら」

「クララが立った!くらいかな」

「なんや、その程度か。おれは息子の誕生以来や」

「そんな大袈裟な」

「お前は産みの苦しみを知らんから」

「それは伯父さんもでしょ」

「そやな」

第2話-真相は壁の中-

はしがき

ここは大阪千林。下町風情が今に息づく横丁。そっと耳を澄ませば聞こえてくるはず。不機嫌な気まぐれものたちの呟きが。「ひとりが好きなわけやないけど、だれかと一緒もきゅうくつ」俗世の垢にまみれ日々あくせくする横丁の住人たちをよそに、日がな一日ごーろごろ。退屈しのぎにぶーらぶら。そんな猫たちのお気楽な横丁暮らしを見るにつけ、物憂さなんてどこへやら。「喜びも悲しみもつかの間。のんびりいこや。生きるってメランコリーにあふれてるんやから」

第2話-真相は壁の中-

「おまえ大丈夫か?悪い夢でも見たんとちゃうか」

朝になって珠子は待ってましたとばかりに伯父さんに連絡を取る。が、スマートフォンの向こうから聞こえてくるのは、暢気に笑う伯父さんの声。

「確かに。一晩中悪夢だった。けど、この状況は夢じゃない。この声聴いてよ」

珠子はスマートフォンを壁に押し当てて、先ほどから壁の中でミャーミャーと鳴き続ける猫の声を聴かせる。

「いくらなんでも壁の中に猫はないやろ。どっかよそで鳴いてるんやて」

「いや、絶対に壁の中にいるって。嘘だと思うんならきてみてよ」

珠子の必至な声に、伯父さんは益々大笑いする。

「わかったわかった。取りあえずすぐそっちへ行くから。朝飯喰ったら落ち着くやろ。一緒にモーニングでも行こ」

一先ずスマートフォンを切って伯父さんを待つことにする珠子。

『何がモーニングよ。朝飯よりも工具がいるわ』

伯父さんの応対に不満を募らせる珠子であったが、ともかく今は伯父さんの到着を待つよりほかない。壁の前で神経病みの狼のごとくうろうろと歩き回る珠子。一向に鳴き止む気配のない壁の声。

程なくして伯父さんがやって来た。珠子は玄関先まで素っ飛んでいく。

扉を開けて珠子の顔を見るなり、伯父さんはにたにた笑う。

「どうしたどうした。猫と言うより、熊がおるやないか。大きな隈がお前の目の下に二匹も」

伯父さんのくだらないおやじギャグに、珠子の苛立ちはピークに達する。珠子は伯父さんの腕をつかむなり、部屋まで引っ張っていく。

「おいおい、妙齢の女性の部屋にことわりもなく押し入るなんてはしたないこと、いくら伯父さんでもようせんわ」

「四の五の言ってないで早く早く」

ふたりが部屋までたどり着くと、物音ひとつなく静まりかえっている。

なんたってまたこんな時に限って押し黙ってしまうとは。珠子は壁に向かってけしかける。

「鳴けったら鳴け!」

不意に不安に襲われる珠子。まさか、伯父さんが与太事のたまってる間に、壁の奥でくたばっちゃったとか…

「ほれ、言わんこっちゃない。せやから壁に猫なんて…」

と伯父さんが大笑いしようとした刹那

「みゃー!」

伯父さんは俄に神妙な顔つきになると、つかつかと壁に歩み寄る。そして、壁に耳を押し当てるなり、珠子の方を振り返る。

「えらいこっちゃ。ほんまに壁の中に猫がおるがな」

第1話-壁猫騒動(かべねこそうどう)-

ここは大阪千林。下町風情が今に息づく横丁。そっと耳を澄ませば聞こえてくるはず。不機嫌な気まぐれものたちの呟きが。「ひとりが好きなわけやないけど、だれかと一緒もきゅうくつ」俗世の垢にまみれ日々あくせくする横丁の住人たちをよそに、日がな一日ごーろごろ。退屈しのぎにぶーらぶら。そんな猫たちのお気楽な横丁暮らしを見るにつけ、物憂さなんてどこへやら。「喜びも悲しみもつかの間。のんびりいこや。生きるってメランコリーにあふれてるんやから」

第1話-壁猫騒動(かべねこそうどう)-

珠子(たまこ)はひとりベッドの中。さっきから引っ切りなしに寝返りばかり打っている。窓の外は土砂降り。大粒の雨が容赦なく窓ガラスを叩きつけている。時刻は深夜2時をまわったところ。草木も眠る丑三つ時だというのに、珠子の目は冴えに冴えて、もうぎんぎん。このままでは一晩中一睡も出来ずに朝を迎えるのは必至だ。

珠子が寝付けないのは、昨日の夕方から降り止まぬ春の嵐のせいではない。

珠子は昨日ここ伯父さん家に引っ越してきてばかり。引っ越してきたなんていうと聞こえは良いが…両親と口論の末、関東の実家を飛び出してはみたものの、行く当てはなし。しょうがなく伯父さんが千林の横丁に所有する事務所兼倉庫に転がり込んだと、言うのが実情。

久々にまともな寝床につけるとあって、荷ほどきもそこそこに、くたくたの身を横たえようと夜半過ぎにはベッドに潜り込んだ。そして泥のように眠る…はずだった。

悪夢はここから始まったのだ。

ごうごうと絶え間ない雨音に混じって、部屋の壁の奥をごそごそと得体の知れない何某かが這いずる音がする。初めのうちは、疲労のあまり幻聴がするのだと、もしくは浅い眠りの中で現実紛いの夢を見ているのだと、

『空耳空耳。直に雨音がかき消してくれるさ』

と気に留めないよう努めていた。が、一端気になり出すと、どうにもこうにも耳について離れない。

どうにかして眠りにつこうと一通り試してはみた。仰向けに寝転んで駄目なら、俯せになったり横向きになったり。耳が隠れるまで枕に顔を埋めてみたり。頭からすっぽり布団をかぶって、月並みではあるが羊を勘定してみたり…望みとは裏腹に努力はことごとく水泡に帰した。珠子は次第にイライラを募らせていく。

と不意に、

『ドッタン、ガタガタ、バタン』

ど派手な騒音を轟かせ、その得体の知れない何某かが壁の中の隙間をずるずる、ぼてっとずり落ちる。

『ぎゃー!』

壁の奥から断末魔のごとき悲痛な叫び声が。

珠子は布団を蹴っ飛ばすと、匍匐(ほふく)前進でベッドから滑り降り、壁にいざり寄る。

「こそこそ隠れてないで潔く姿を現せ。悪霊め!」

「みゃー!」

と、壁の奥から甲高い声が。

「猫かぶったってお見通しだ。この化け猫!」

こうして一晩中壁の板一枚へだてて押し問答しているうちに夜が明けた。