ここは大阪千林。下町風情が今に息づく横丁。そっと耳を澄ませば聞こえてくるはず。不機嫌な気まぐれものたちの呟きが。「ひとりが好きなわけやないけど、だれかと一緒もきゅうくつ」俗世の垢にまみれ日々あくせくする横丁の住人たちをよそに、日がな一日ごーろごろ。退屈しのぎにぶーらぶら。そんな猫たちのお気楽な横丁暮らしを見るにつけ、物憂さなんてどこへやら。「喜びも悲しみもつかの間。のんびりいこや。生きるってメランコリーにあふれてるんやから」
壁猫救出作戦。結局終わってみれば半日がかりであった。
「今朝はたまとふたりで近所の喫茶店にモーニングでもしゃれこも思とったのになぁ。あっこの半熟卵ときたらほんま絶品なんやで」
珠子と伯父さんは床にへたり込んで壁を見上げている。それにつけても、壁一面穴ぼこだらけ。ひどい有様である。
「腹減ったなぁ。お前のおかげでモーニングどころか、昼飯まで食いはぐれてもたわ」
伯父さんは、お膝にちょこんまんと陣取る子猫のあごの下をもじゃもじゃと撫でてやる。子猫は伯父さんの指にじゃれつくと、小さなお口にふくんできゅーと吸い付く。
「お前も腹減ったんか?そらそやわな。一晩中壁の中に閉じ込められとったんやからな。何食べたい?」
珠子は子猫に顔を近づけると、伯父さんの膝から子猫とさっとかすめ取る。
「子猫と言えばミルクよねぇ」
珠子は両手で子猫の両脇を抱え上げると、その小さな鼻面に頬ずりする。
「ミルクて、お前は安直なやっちゃな。ミルクゆうたら牛乳やで。牛の乳やで。そんなもん飲ませようもんなら腹こわしよるがな」
今度は伯父さんが子猫の背後から首根っこをひょいとつまみ上げると、自分の方へと連れて行ってしまう。
「じゃ、何食べさせればいいの?」
子猫を取り返そうと珠子がそっと手を伸ばす。
「このくらい大きなっとったら、普通のキャットフードでええんちゃうか。なあ~お前何食べたいねん?」
「珠子はねぇ、伯父さんの手料理なら何~んでも」
伯父さんは、そばまで伸びてきた珠子の手をめざとく見つけると、手の甲にしっぺする。
「お前とちゃう!」
伯父さんは母猫よろしくシーッとしかめっ面を見せつけて、くるりと珠子に背を向ける。
「腕によりを掛けてご馳走喰わしてやりたいところやけど、ホンマ疲れたわ。今日の所は手っ取り早う千林のお総菜で済ましとこか」
子猫を奪われまいと、伯父さんは首だけ珠子の方へ向ける。
「たま、すまんねやえど、千林いってちぃっとなんなと見つくろってきてくれへんか」
「え~そんなこと言われても、わたし昨日ここに着いたばっかりよ。千林なんて…」
伯父さんは大きなため息をつく。
「しゃあないなぁ。ちょっくらいってくるか」
伯父さんは、子猫の身体を片手でひょいと抱き上げ、珠子の膝へと乗っける。
「おとなしいしとれよ。いや、やっぱ暴れたれ」
「もう」
「壁の中にはいれるなよ」
「いれないわよ!」
伯父さんは、ズボンの後ろポケットに財布を押し込むとそそくさと千林界隈へと出かけていく。
バタンとドアが閉まる音がするやいなや、珠子は両手で思いっきり子猫を高い高いする。
「これでようやくお前とふたりっきりよ」
子猫を独り占めできるとあって、珠子は浮かれ心地で子猫と思う存分床でごろんごろんする。
珠子と伯父さん、ふたりの愛情を小さなその身に一身に受け、ありがた迷惑な子猫であった。